自分の信念を貫いて 本学OB麻生太郎外務大臣インタビュー

  首相の孫として
 長年にわたって政治の舞台で存在感を発揮し、現在も多忙を極めている麻生氏。本院で過ごした日々もまた、決して平穏なものではなかった。
「私は、初めに福岡の小学校に通っていたんだよ。だけど、吉田茂内閣が発足することになって、両親ともども孫の私も東京に引っ越して、学習院の初等科の3年に編入することになったんだ」
 ところが、まだ幼かった麻生氏に突然の反吉田の嵐が襲い掛かる。
「当時の世論には、祖父が結んだ日米安全保障条約に対する猛烈な反感があった。だから、吉田茂の孫ということで、私も攻撃の対象にされてしまったんだよ。けれど私は、なにくそ、という気持ちをずっと抱いて生きていたね」
 さらに、祖父としての吉田氏の思い出に話が及んだ。
「祖父はとにかく日本が好きだったよ。『日本は必ず良くなる』という信念で政治に取り組んでいる人だった。そんな祖父から、授業そっちのけで遊びに連れ出されたなんてこともあったな。車で一緒に、動物園や落語の寄席に行ったりしたんだ」
  部活動に明け暮れた学生時代
 それから、中・高等科と本院で少年時代を過ごした麻生氏。大学受験を控えて、他の大学にも目を向けたが、最終的に内部進学の道を選ぶこととなる。
「官学を受けようかとも考えたけど、お前は役人になりたいのか、と親に言われてしまってね。当時は官学と言うと役人のイメージが強くて、親の跡を継いで経営者になることが目標だった私は、確かに官学に行く必要はないと思ったんだ」
 こうして本学の政経学部へと進学した麻生氏。だが、当時から政治の勉強を熱心にしていたかというと、そうでもないのだという。
「ひたすら横浜でヨット部の活動をしていたから、学校にはほとんど通っていなかったな(笑)。目白に来たとしても、学校の外で遊んでばかりだったよ」
 このように、体を動かすことに没頭していた麻生氏は、授業での思い出がほとんどないようだ。それでは、大学の試験をどのように切り抜けていたのか。
「私は要領が良かったから、友達からノートを借りて、直前にテスト勉強して間に合わせていたんだ。とにかく、不可を食らわなければいい、という姿勢で乗り切っていたね」
  カリフォルニア訛りで苦労
 本学卒業後、アメリカのスタンフォード大学大学院に留学し、政治学を学んでいた麻生氏。だが、ここでも吉田氏に振り回されてしまう。
マッカーサー元帥の葬儀でサンフランシスコを訪れていた祖父から、宿泊先のホテルに呼び出された時にルームサービスを頼むことになったんだ。その際に、私が喋った英語の訛りを祖父にたいそう驚かれてしまってね。それを聞いた親からも、麻生家にそんな学歴は不要だから帰って来い、なんて言われる始末だった。それで送金を止められ、飛行機にも乗れず、仕方なく船で2週間かけてなんとか帰国したよ」
 その後麻生氏は、改めてイギリスのロンドン大学政治経済学院に留学する。今度は伝統的な発音の英語に親しみながら、経営学を学んだ。
  かけがえのない数々の経験
 ロンドンから帰国後、昭和41年に麻生氏は麻生産業株式会社に入社し、直後に会社の取締役に就任した。7年後には、麻生氏は麻生産業から分離独立した麻生セメント株式会社の社長となる。
「あの頃はちょうどオイルショックが起こって、会社の経営はかなりしんどかったな。けれど、その数年後にはセメントの需要が一気に高まったので、会社の建て直しに成功したんだ」
 麻生氏は、このような社長時代の苦労を通して世の中の厳しさを知り、現在に繋がる精神力を培ったのだという。
 また、麻生氏はかつて日本代表の射撃選手として、昭和51年に開催されたモントリオールオリンピックに出場した経歴も持つ。氏は20歳の時、父親の影響で射撃を始め、翌年には国体で優勝するまでに上達したという。後によりいっそう射撃の腕に磨きをかけ、何度も日本選手権を制覇した。
「オリンピックに出場する前に、テヘランアジア大会とメキシコ国際射撃大会で優勝していたから、自信はあったんだ。でも、オリンピックではこてんぱんにやられ、41位という残念な結果に終ってしまったよ」
 このオリンピック出場は、麻生氏にとって、人生の1つのターニングポイントとなったそうだ。
「オリンピックを機に射撃競技はやめてしまったけど、もしあのまま競技を続けていたら、そのうち金メダルを取るような選手に成長していたかもしれないな(笑)。あの時は、仕事と射撃のどちらをとるか迷っていたけど、結局仕事を選んだんだ」
  政治で地元を救いたい
 そんな麻生氏が政治家を目指す直接のきっかけとなったのは、日本青年会議所の会頭を務めたことだという。
青年会議所には、福岡の先輩の勧めで入会したんだ。ここで会頭を務めるまでは、政治家になろうとは考えたことがなかったな。子供の時から祖父や父の姿を見ていて、政治家の大変さを知っていたからね。だけどその時、会頭を務められるのなら、政治家としての能力もあるんじゃないか、と思うようになったんだ」
 なにより麻生氏には、地元を救いたいという大きな目標があった。
「私の地元筑豊を含め、かつて石炭の産出地であった福岡県の内陸部は、炭鉱閉鎖の後遺症がまだ残っていて、先行きがないといわれていてね。産業の喪失とともに地域の財政基盤がなくなり、住民は生活保護なしに生きていけないといった暗いイメージがあった。だから私は、政治の力で内陸部の財政状況を変えたいと思ったんだ」
 そのような志を抱いていた麻生氏は、会頭を経験した翌年の昭和54年、衆議院議員選挙に立候補し、初当選を果たした。
筑豊の経済は、インフラを整備し、大規模な工場を誘致したおかげで上向くようになり、旧炭鉱町の疲弊したイメージを払拭することに成功したんだ。その時は、政治の力はとても大きいものなのだということを実感したよ」
 こうして麻生氏は、政治の舞台へと歩みだしていった。現在は、外務大臣という立場から日本を支えている。
  勉強より大切なもの
 最後に、麻生氏から未来の社会人である私たちに向けて、メッセージを頂いた。
「人は勉強ができるだけでは駄目だろうな。大学の試験でいい成績を取っても、社会で通用するとは限らない。試験は必ず答えがあるし、自分で問題を作らなくていいし、易しい問題から順にやればいい。ところが世の中に出れば、問題に答えがあるかどうかも分からない、一見問題がなくても常に自分で問題意識を持って考えなくてはならない、難しい問題から先に片付けなくてはならないと、試験とはまったく逆のことばかりなんだ。社会で生きていくのに本当に必要なのは、体力と気力、組織の中での協調性、そしてなにより人としての魅力だよ。魅力のある人は、多少失敗しても許されるものだからな。何か人を惹きつけるものを持っていることは、とても大切なんだ」
麻生氏の言葉には、常に第一線の現場で活躍してきた実感がこもっている。それは、今後の私たちの確かな指針となってくれることだろう。