「複数の言葉のはざまに」文学部フランス語圏文化学科大野麻奈子准教授

 今回はフランス語圏文化学科の大野麻奈子准教授です。先生は現在、ノーベル文学賞受賞者のサミュエル・ベケットを研究しています。その中でも小説と戯曲の関係についてお話を伺いました。  (取材・構成 中谷美穂)
 価値観を変えた本との出会い
 先生は大学でフランス文学を専攻していた。だが、文学を研究することに対して漠然と抵抗を感じていたという。そんなある日、偶然手にした文学理論の本から、研究の原点を見い出すことになる。
「その本には、ひとつの作品を精神分析の視点から、社会学視点から、というように様々な切り口で読み解く方法が紹介されていました。それがきっかけで、多角的に解釈できることに興味を持つようになったのです」
 芸術に触れる日々の中で
 こうして文学研究を始めた先生は、大学院生の時に給費留学生としてフランスへ渡った。留学先のパリは、あらゆる文化が共生する都市である。この地で先生は、大学での講義だけでなく生活空間からも多くの刺激を受けたという。
「大学で学んでいることに関連した展覧会などがあると、先生が紹介してくださいます。その度に美術館や劇場に足を運ぶようにすれば、習ったことを自分の目で直接確認できました。そのほかにも、フランスは芸術鑑賞をする時に学生割引が適用されるので、手軽に見に行く環境に恵まれていましたね。そのおかげで、文化的に豊かな生活を送ることができたと思います」 
 芸術に触れた留学生活は3年半にも及んだ。この中で、先生の研究に新たな風が吹いたのである。それはサミュエル・ベケットという作家の再認識であった。
ベケットの本を日本語で読んだ時に惹かれた作品もありましたが、大半は内容を捉えにくいものでした。ところが留学中にフランス語で書かれた本を読んだら、とても面白かったのです。それからは彼の作品を研究するようになりました」
 自己翻訳を行なう作家の研究
 アイルランド出身のベケットは、20代からフランスに住み、小説や戯曲を書き続けた。彼は主にフランス語で作品を執筆するが、その後自ら英語へと翻訳する。先生はその作業の経過に関心を寄せている。そのため、同一作品でもフランス語と英語の双方を読んでいるそうだ。
ベケットの翻訳作業には、単純な言葉の置き換えというよりむしろ、編集のような印象を受けます。例えば、フランス語では直接話法の文になっていたのに、英語では間接話法の文になっていたことがありました。さらに、翻訳にあたって内容を数ページ分省いている場合もあり、非常に驚きました。翻訳で変更された部分を考察することで、興味深いことをたくさん発見できるのです」
 当初、先生はベケットの小説だけを研究対象にしていた。しかし次第に戯曲にも目を向けるようになる。これは、彼の小説と戯曲が互いに切り離せない存在であるということに気がついたためだ。
「戯曲の中には小説のような部分があり、その一方で小説にも戯曲のような部分があります。私はそれらが果たす役割について考える必要があると思いました。そこで今は、両者のつながりについて検証しています」
 様々な視点から進めていくベケット研究。膨大な文献を扱うため時間がかかるが、先生はその苦労をいとわない。複数の要素からひとつの問題を突き詰めることを楽しんでいるのだ。
「この研究を通して、フランスの現代演劇をさらに深く掘り下げたいという意欲が湧いてきました。自己翻訳についてはベケット以外の作品も扱ってみたいですね。母語ではないフランス語で小説を書く作家は、ベケットだけではありませんから」
 ベケットを発端にした研究は今、変遷期を迎えている。これまでの研究成果が、新たな研究のレールを敷いていくのだ。先生はそれを休むことなくたどり続けていく。
 PROFILE
大野麻奈子(おおの・まなこ)
1997年学習院大学大学院人文科学研究科博士課程中退。2004年パリ第8大学にて博士号取得(フランス文学)。06年より現職。