山桜

 薄紅色に咲く山桜の下での、ただ一度きりの出逢い。たったそれだけで人生が変わり、胸に秘めた思いと共に、強く生きていけると信じられることがある―。
 舞台は江戸後期、春。武人の妻・野江は、一度目の夫には先立たれ、二度目に嫁いだ磯村家には馴染めずに、心苦しい日々を送っていた。そんな中、伯母の墓参りの帰り道で、うららかに咲く山桜に目を奪われ、一枝持ち帰ろうと手を伸ばす。ところが、もう少しと言う所で枝に届かない。すると突然、「手折ってしんぜよう」と声をかけた男がいた。その武士の名は、手塚弥一郎という。野江を密かに見初め、磯村家に嫁ぐ前に縁談を申し込んでいた相手だった。手塚は野江を見つめ、「今は、幸せでござろうな」と問いかける。辛い境遇を隠し、とっさに野江が「はい」と答えると、手塚は安堵の微笑みを浮かべ、歩み去って行った。
 思いがけない出来事に戸惑いながらも、人知れず自分を気にかけてくれていた存在を知り、心を慰められた野江。それを支えに、磯村の家でも健気に良き妻を努めようとする。しかし、それから半年後、手塚が藩の重臣・諏訪平右衛門を斬ったという知らせが届く。農民を虐げ、私服を肥やす諏訪に、自らを犠牲にして刀を振るったのだった。「切腹は必至」と噂される獄中の手塚の身を、野江は一途に案じ続けるが…。
 桜が咲くたび、不思議と切ない記憶が呼び起こされるような気がするのは、日本人の誰しもが経験することだろう。咲き誇る山桜の下、野江と手塚が出逢う場面は、そんな日本人の心の風景を、ありありと描き出したかのようである。また、藤沢周平の原作を忠実に再現した映像には、絶えることなく奥ゆかしい気品が漂っていた。田中麗奈演じる野江のつつましい女性らしさにも、一見の価値あり。毅然として耐え忍ぶ野江の姿は、風雪に負けず花開かせる山桜に重なり、観る者を静かに励ましてくれるはずだ。(市川美奈子)