現実を指摘する勇気

 アルバイトや学校などで同世代と触れ合う機会は多いが、よく感じることは皆が一様に優しいということだ。何か尋ねれば親切に教えてくれるし、自分が失敗しても大体は笑って流してくれる。いかにも、他者との和を尊重する日本人らしい光景だ。それ自体は我々の個性であり美徳であるし、実際の居心地も良いものであるが、この優しさは他者への無関心に通じているように思える。
 優しいということは、個人を尊重し、その違いを認めるということでもある。だがこれが行き過ぎれば、真に他者を思い遣った言動を自ら封じることになってしまう。人に嫌がられることを言い、あの人は優しくない人だ、気が利かない人だ、と思われることを現代人は非常に恐れている。その結果、他人との交流はとても表面的で淡白なものとなってしまう。組織における人間関係でもこれは顕著だ。部下の言うことに耳をひたすら傾け、怒鳴ったりなどしない温厚な上司が時代のニーズに合っているなどとされる。とにかく、波風を立てないことが第一なのだ。
 かつて山本七平は、自らの著作である『空気の研究』の中で、日本には伝統的に「水を差す」文化があったことを指摘した。水を差すとは、端的に言えば現実的・長期的な意見を述べて場の調和を壊す行為だ。例えばフリーター達が集い、見果てぬ夢について語り合っているとする。次から次へと輝かしい未来のビジョンが飛び出し、まるで成功は約束されたかのような気になってくる。ところが、ここで醒めた人間が突如「でも、先立つ金がないよなあ」などと言って皆を厳しい現実に引き戻す。場は一時白けてしまい発言者は顰蹙を買うが、解決すべき問題を客観的に把握することはできるだろう。さらに、できもしないことのために労力を浪費することもなくなる。しかし、こういった些細な対立さえ避けられがちなのが実態だ。また、敢えて嫌われ役を買って出る人間を評価する精神的土壌も失われ、大局的な視野を持った者がますます活躍しづらくなっている。
 このままでは多くの人間が関わりたがらない問題が放置され、社会の病理は深まっていくだろう。今は表面的な柔和さを捨て去り、耳に痛かったとしてもしっかりと将来を見据えた意見が言える「空気」が必要なはずだ。   (法学科2年 澁谷毅士)