いにしえより続く歴史

 日本人が大好きな入浴。その原型は、日本の成り立ちについて書かれた奈良時代の書物に記されている。黄泉の世界から帰ったイザナギノミコトが、禊ぎを行ったという記述だ。今や日常生活の一部となっている入浴の歴史は、実はとても古いものなのだ。
 そしてその間、お風呂も様々な変貌を遂げてきた。現代のものは、浴槽に張ったお湯に浸かるタイプである。しかし、かつてはお風呂というと蒸し風呂のことを指し、古くから岩窟を利用した蒸気浴が行われていた。一方、温水に浸かる沐浴の方は湯と呼ばれ、今で言う温泉のことであった。これは、傷を負った鹿や熊が沢に浸かっているのを、里人達が発見したことから始まる。動物の行為を不思議に思った彼らは、この水が温かいことに気づく。やがてその効能を知り、真似をして入るようになったのだ。このように、入浴の習慣は古くから心身の洗浄の目的で、特定の地域ではあったが、日本各地に存在していた。
 現在のような湯に浸かる習慣が本格的に定着したのは、6世紀頃に伝来した仏教のおかげである。仏教では、汚れを落とすことは仏に仕える者の大切な仕事として、沐浴の重要さを説いていたのだ。聖徳太子が仏教を歓迎した影響で、寺院に湯屋が作られていく。また「入浴によって七病を除き七福を得る」という教えによって、多くの人が利用するようになった。寺院での施浴は、温泉から遠く離れた土地に住む一般大衆に、大いに喜ばれた。このように、入浴は日本に浸透していったのだ。
 こうして、奈良時代から広まりを見せたお風呂は、やがて移動可能な据え風呂へ発展していく。これは個人の家に置くもので、長州風呂や鉄砲風呂と呼ばれた。だがそれは上層階級の人々に限られたものであった。庶民達は、湯を沸かすための燃料や水を安く豊富に入手できず、風呂桶を置く場所すらなかったのだ。そのため彼らは、たらいを使用した行水を行った。
 江戸時代になると、ついに銭湯が登場する。当時、銭湯の浴槽の入り口は天井から床までの半分以上を板戸でふさぐ、「柘榴口」というデザインが成されていた。このため、人は腰を屈めて湯船へ入らなければならなかった。加えて、この板戸が外からの光を遮ったために浴室は薄暗く、その上湯気が立ちこめており、浴場の中はほとんど何も見えなかったという。そのようなものをなぜ設置したのかというと、浴室の蒸気を逃がさないようにするためだ。保温効果と共に燃料削減にも役立ち、なかなか機能的であったようだ。
 さらに、お風呂は体を清めるためだけでなく娯楽としても栄えた。銭湯は人々の交流や情報収集の場であった。また、据え風呂を人通りの多い道に置き、入る人に三味線や口上を聞かせて楽しませる「辻風呂」が登場。他にも船の中に浴槽がある「湯船」や、花見の席に据え風呂を持って行き、浸かりながら花を愛でる「花見風呂」が現れた。
 はじめは心身を清めることが目的で誕生した入浴は、時の流れとともに娯楽として変化し、心と体の疲れを癒すものへと変遷を遂げた。それは形を変えながら日本の習慣として定着し、今も日本人にとって欠かせないものとなっている。(須野原遼)