いつもひたむきな姿勢を

 今も心に残る一言
 和菓子の老舗「虎屋」の17代目当主であり、社長である黒川氏。この大役を務める上での心構えの原点は、学習院で過ごした日々の中にあるようだ。
「私は学習院には初等科からいました。当時の院長先生は、安倍能成(よししげ)先生とおっしゃって、いつも『正直であれ』というお話をされていましたよ」
 安倍先生は学期ごとの始業式や終業式といった機会があるごとに、人間は正直が一番であると話していたそうだ。この教えは今でも黒川氏にとって印象深く残っており、現在もお客様に対する態度などで心掛けていることだという。
 部活動で得た経験
 黒川氏は大学で硬式テニス部に所属し、ここでも後の人生の財産となる数々の経験を積んだ。
「テニスは高校時代から始めて、今でも続けています。大学のテニス部ではスポーツの素晴らしさやフェアプレー精神、一つのことにひたむきに取り組むことなど、多くの教訓を得ました。このフェアプレー精神は先程の『正直であれ』とも繋がってきます。あとは友人も多くできましたよ。その輪は学習院だけでなく、練習試合などで他校にも広がりました。中には50年くらいの付き合いになる人もいますね。これもテニスが取り持ってくれている縁です」
 もちろん体育会系の部活というのは、このような楽しい出来事ばかりではない。中には厳しいトレーニングや地道な下積み時代もあったはずである。
「例えば、辛い練習も陰で手を抜こうと思えばいくらでも抜けます。だけど、嫌でもそれを避けないことが、後に自分にとってとてもプラスになるということを、テニスを通じて理解しました」
 そしてこの姿勢は虎屋の社風にもなっている。黒川氏は今でもよく、やりたくないことでもやらなければいけないことは真正面から取り組んでいこう、と社員に呼びかけているそうだ。
 改めて学生時代を振り返って
 これまで、本院で学んだ様々な話を語ってくれた黒川氏だが、一つだけ反省点があるという。
「今振り返ると、もっと勉強しておけばよかったなあと思います。学習院出身の人は生徒だろうと教授だろうと、嫌な人ってほとんどいませんよ。ただ『勉強してないなぁ』って人はいたかもしれません。私も他人のことを強くは言えないけれどね」
 そう苦笑いを浮かべながら話す氏。
「人付き合いも大切だけど、うちの学校は放っておいても良い人間関係ができるから、その分、学習院の学生はもっと他の色々なことを学ぶべきだと思います」
 社会人になって
 虎屋を継ぐことを念頭に置き、それまでに何かためになる経験をしたいという思いが黒川氏にはあった。そして富士銀行に就職し、社会の実像を目の当たりにする。そこに、学生時代に描いていた社会人像と食い違いはあったのだろうか。
「私の場合、ギャップというものはありませんでした。でも友人の中には下働きを嫌がって、すぐに辞めたくなった人もいたようです。彼はもっと社会人として大切に扱われると思っていたらしいです。私は運動部上がりだから、こんなことで良いのならと、嬉々として雑務もやりましたよ」
 社会に出ても、こうしてテニスで培った忍耐力が活きた。7年間の部活動は氏の精神的支えになっているようである。
 富士銀行での3年半
 入行後、貸付係になったとき、顧客にどれくらいお金を渡せるかどうか上司と議論をするようになった。そこで「こんなところに貸したら返ってこない。貸すことないよ」と言われ、銀行は人助けのためではなく、利益を追求するための集団だという厳しい現実を感じたという。
「けれども、ある企業に何回も通っているうちに『おまえが気に入ったから、これからはそっちで預金するよ』と言ってもらうなど良いこともありました。私は3年半しかいなかったけど、その間で社会人として必要なことを経験しましたね」
 虎屋に入社してから
 そして昭和44年に富士銀行を退社し、同年虎屋へ入社した黒川氏。では当時の氏にとって、虎屋の印象はどのようなものだったのだろうか。
「その時の虎屋は、決して組織がしっかりしていたわけではありませんでした。誰が何に対して責任を負えば良いのか、はっきりしていなかったんです。こんなことで会社が成り立つのか、とさえ感じましたよ」
 だが、黒川氏が社長へと就任した平成3年までにこういった状況は大幅に改善されていたようだ。なお、これと並行してもう一つの改革も行われていた。
「昭和51年には男女統一賃金を採用して、男女差別を撤廃することに成功しました。だから、昭和60年に男女雇用機会均等法が施行された時、虎屋では直すところが何も無かったんです」
 このように振り返る黒川氏。時代を先取った制度を導入するなど、虎屋を現代でも通用する組織に変革していった。
 食品問題について
 近年、何かと話題になっている食品問題。これを、同じ業界の会社の社長である黒川氏はどう捉えているのだろう。
「ああいった問題が起こる理由としては、作る側の人間の『もったいない』という心理が関係しているはずです。少し賞味期限が過ぎたからといって、大切な食べ物をどうして捨てなければならないんだ、という気持ちを持ってしまったからでしょうが、企業としてはやってはならないことです。でも私は、食べ物をもったいないと思える感性はとても素晴らしいものだとも思っています」
 切々と語る黒川氏。消費者とは異なる、生産者ならではの見解を示した。
「手作りと言った方が、確かに聞こえは良いかもしれません。でも需要に応えるために、冷凍保存したり機械で製造するのは全然悪いことではないと思います。ですがそのことを公表せず、手作りだと偽るのはいけないことです。それは、お客様に対する裏切りに他ならない。嘘をつかず、始めから正直に言えば済むことでしょう」
 また、長い歴史と伝統を誇る虎屋。しかし和菓子の味は、昔と全く同じ、というわけではないようだ。
「長年の味を保つことを讃える人が多いけど、私の考えは違うんです。味とは、試行錯誤しながら変わっていくべきものだと思います。例えば昔ながらの風味に固執しても、今召し上がるお客様に『おいしくない』と思われたら意味がありません。現在のお客様がおいしいと感じてくださることが、何より大切です」
 新入生へ贈る言葉
 黒川氏は、人生の頂点をどこに定めるかによって、大学での時間の過ごし方は変わるのではないかと語る。
「大学生活をピークとするなら、思いきり遊ぶのも一つの生き方でしょうね。そうではなく、社会に出てから頑張りたいのであれば、しっかり勉強もしないといけない」
 さらに、黒川氏はこう続けた。
「覚悟というか、潔さを持ってもらいたい。辛いことであっても、自分が正しいと判断したなら最後まで正面からぶつかっていってほしい。そういった経験は必ず、その後何かに打ち込もうとするときの糧になる。そう思います」
 組織を統括する、社長という立場にある黒川氏の言葉。これは新入生の諸君にとっても、心強い道標となることだろう。