「文学と他の領域の狭間で」文学部日本語日本文学科 中山昭彦教授

 今回お話を伺ったのは、日本語日本文学科の中山昭彦教授です。先生が研究されている、文学の社会的位置について、また小説と映画の違いについて解説していただきました。(取材・構成 筒井久実子)
 文学と他領域
 従来文学というものは、作品そのものを鑑賞したり調べたりすることで研究されてきた。しかし文学の中身のみを見ていたのでは、作品が外側からどう捉えられていたかを理解できない。そこで、文学と文学以外の領域を比較することで作品を研究しようと先生は考えたそうだ。
「文学と新聞、文学と美術、といったように、文学と何かを比べることで社会の中での位置を探る、ということですね。例えば小説好きの人のための雑誌ではなく、新聞のように一般的なものから小説や小説家の扱いを把握していきます。明治の後半になると、小説家の私生活に関する新聞記事が出てきました。それもゴシップ記事やスキャンダルが多く、小説家という存在が注目されてきたことがわかるんですね。今は国語の教科書にも作家のプロフィールが載っていますが、この時代以前にはそんな情報も出回らなかったし、読者も興味がありませんでした。けれど、この頃からだんだんそういった作家の情報を作品と関係させて読む、ということが行われていったのです」
 その頃、小説家が自身の経験を描く私小説という分野も新しく広まった。これは作品と小説家を関連させて読む風潮が、小説家自身にも影響したことを示しているのだろう。こうして小説がどのようにして知られていったかを調べると、文学の社会的位置がわかってくるということだ。
 小説と映画
 文学と他領域の比較の一環として、小説と映画の比較も先生の研究テーマの一つである。小説を映画化したり、映画を小説にしたときに、両作品はどのような違いを持つのかを、具体的に説明していただいた。
「比べるポイントとしては、単なるストーリーの相違ではなく、細かい表現の違いに重点を置いています。一例として、映画で書斎のシーンがあったとしましょう。そのたった一シーンの描写を文章で表現しようとすると大変です。また逆に『彼は三年間何事もなく過ごした』という一節を映画にしようと思ったら、これも難しいですね」
 だが近年、小説や漫画を映像化したり、映画を小説にしたりするメディアミックスが加速している。あまりにも頻繁に、そして簡単にそれらが行われてしまっている感は否めない。強引なメディアミックスは失敗に終わることが多い、と先生は警鐘を鳴らす。
「小説と映画では、受け手の捉え方が大幅に変わってしまいます。これを簡単に変換できると最近では思われているようですが、そんなことはありません。メディアミックス自体はむしろ良いことですが、ちゃんと変換できるかどうかの判断を厳しくしてもらいたいですね」
 今後の目標
 日本では、このような多くの領域にまたがる研究はまだメジャーではない。もっとも、フランスやイギリスなどでは1960年代から行われていて、日本でも少ないながらもこの分野の研究者はいる。しかし、こういった複数領域にわたる学問は時間もかかり、なかなか一人で取り組むのは困難だ。
 先生は今後、できれば何人かの研究者でチームを組んで、この広い領域に取り組んでいきたいという。そんな先生の目標を伺ってみた。
「やはり文学の社会的位置づけについてまとめていきたいです。今は明治から大正頃までがやっと形になってきたので、第二次世界大戦後くらいまではやりたいと思います。できれば現代までですが。あとは映画と小説の比較もしっかり固めたいですね」
 様々な分野への興味を研究に活かし、多角的に文学を見据えようとする中山教授。その斬新な発想で、これからも新しい視点を開拓し続けることだろう。
 PROFILE 中山昭彦(なかやま・あきひこ)
 1994年北海道大学文学部助教授。07年より現職。著書に『機械=身体のポリティーク』(共編著、青弓社)、『ポストコロニアルの地平』(共編著、世織書房)など。