時を超える源氏物語の時代

 歴史上に作品の姿が確認されてから、今年で千年が経つという『源氏物語』。そのような長い時の流れの中でも、色あせることなく愛され続けているのは一体なぜなのだろう。源氏物語研究の第一人者である、学習院女子大学学長・永井和子氏にお話を伺ってみた。
 まず永井氏は、源氏物語の最大の特徴は「古い・長い・女性が書いた」という三点であると語る。だが、これらの性質ゆえに、源氏物語の原文そのものは遠い存在なのだという。「古い作品であっても、たとえば『ハムレット』の名台詞などは、現代でも変わらずに使われることがありますね」。それと比べて源氏物語は、研究者でもない限り、原文がそのまま頭に入っている人は少ない。とはいえ、この原文との距離感こそが、源氏物語の最大の魅力だと言えるのだそうだ。「物語というのはもともと現実にはあり得ない話ですし、書かれているままの状態では理解しにくいからこそ、そこに自由な想像力が働きます」と永井氏。紫式部は千年前の当時、絵などの他の表現手段に頼ることもなく、ただ言葉のみで物語を書き記した。「それゆえ、後世の人々は原文に束縛されずに、時代によって様々な楽しみ方をすることができました。絵画化したり、要約したり、歌だけ鑑賞したり、滑稽に脚色したり。作者が言語に厳しく閉じ込めた世界を、好きなようにイメージして再創造したのでしよう。その意味で、源氏物語の生命は、尽きることなく生き続けていますね」。現代においても、絵や漫画として描かれたり、映画化されたり、占いが作られたりと、多様に解釈されている。このようにテクストを離れた次元で、どの方面にも展開することが可能なのが、広く親しまれてきた理由なのだろう。
 また、千年前の平安時代と現代では、文化や生活習慣などが大きく異なる。婚姻制度の変化による女性の社会的立場などは、その最たるものだ。それにも関わらず、源氏物語のヒロイン達は、今でも多くの女性の共感を集めている。その理由は、何処にあるのだろうか。「確かに、時代背景の知識がなければ、源氏物語の女性像はわかりにくいでしょう。けれども生き方や恋愛は、昔も今も同じで、女性は愛したいし、愛されたいし、溌剌と生きたい。平安時代の婚姻は一夫多妻的、現代では一夫一妻制ですが、制度は変わっても、愛すること自体の微妙さや切実さは変りません。人間の根源的な部分や、生命の精気が鋭く見据えられている面白さは、私たちにもよく伝わって来ます」。
 さらに永井氏は、千年という時間も、けして遠い昔のことではないと言う。「人類自体の歴史は、千年という単位などよりも、ずっと長いもの。四千年前の中国、紀元前のエジプトでは、文化もとっくに成熟していました。文化史、人類史という大きな枠組みで見ると、源氏物語はまだまだ生まれたばかりの、新しいものだと言えます」。一見、遥かにかけ離れた存在のように思われる源氏物語。だが、考え方を広げてみると、実は私たちと深く通じている、身近な存在であるのかもしれない。
 最後に、永井氏が最も興味深く思っているという宇治十帖について話していただいた。「かつては『光』源氏という太陽が藤壺朝顔・葵といった『植物』の名を冠した女性達を照らしていました。しかし宇治十帖の世界では絶対者が不在で、すべてが相対的に捉えられています」。宇治十帖の無常観漂う世界観は、絶対的なものの存在しない不安定な現代に、非常に似通っているそうだ。
 こうした普遍性の面からも、源氏物語が秘めている魅力は底知れない。千年紀を機に、その深甚な世界に今一度想いを馳せ、自分なりの源氏物語像を思い描いてみてはいかがだろうか。(市川美奈子)