紫式部の生きた時代

 作者である紫式部は、10世紀頃に京都で生まれた。父は、詩人・文学者の藤原為時である。母は藤原為信の娘で、幼くして死に別れてしまう。両親は共に歌人、学者の血を引いており、紫式部は生まれながらにして非常に聡明であったといわれている。こうした環境で、彼女は父の書物を読んだり、音楽や仏典の教養を身に付けたりして育った。父親が、「女であることが残念だ」と嘆くほど学問に長けていたという。
 彼女は、998年頃に藤原宣孝と結婚する。28歳で娘賢子を産むが、数年後には夫が亡くなってしまう。この後、世界最古の長編小説となる『源氏物語』の執筆を始めたとされている。
 さらに、歌人でもあった紫式部は、中古三十六歌仙の一人でもある。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選した。このように、多彩な才能を発揮した人物であった。
 そして、その文才を認められ、1005年頃、藤原道長の娘で一条天皇中宮である彰子の元に出仕する。この宮仕えで体験した宮中生活を参考にしながら、『源氏物語』を書き進めた。この作品について、彼女の随筆である『紫式部日記』には「彰子が敦成(あつもり)親王を出産した御祝いとして献上された本である」とも書かれている。そのうちに、口コミによってたくさんの貴族たちに写本して読まれ、評判となっていった。だが、写本する時に誤字や削られた箇所があるため、現存する本書は、完全なものではないといわれている。
 紫式部の生きた平安時代では、清少納言和泉式部菅原孝標女など、多くの女流文学者が誕生した。このことは、摂関政治と関係がある。彼女たちが主に活躍した時代は「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」と藤原道長が詠み、彼らが栄華を誇った平安中期。絶対的な権力を握るためには、天皇と婚姻関係を結び、外戚となる必要があった。そのため、貴族の父親は、娘たちが天皇の后になるための教養や学問を幼少期から学ばせた。他にも、かな文字の発達により、漢字とは違う平易さから女性たちは文学に親しむようになったのだ。また、当時の女流文学者の出身は、中流貴族ばかりだ。身分がある程度低いことで、外に出て旅ができたため、こういった豊富な体験を文学に活かせた。こうして、日本史上に輝く女流文学が平安の時代に開花していったのである。 (木村明子)