まっすぐに人を愛すること

 「私は誰かに愛されるよりも、愛を与えたいの」―これは、名女優オードリー・ヘプバーンの言葉である。彼女は、映画界から引退した後、ユニセフの親善大使として、発展途上国の子どもたちのために生涯ボランティア活動を行った。彼女のように、ひたむきに誰かを愛し続けることは素晴らしいと思う。
 とはいえ、自分のためではなく相手のために愛すること程、困難なものはないだろう。本人は相手を愛しているつもりでも、実は自分のエゴでしかないこともある。漫画『水物語』には、そんな男女のすれ違いが生々しく描かれている。主人公の男性である村上は、表面的な優しさとは裏腹に、女性に対して誠意がなく、身勝手そのもの。我慢の限界に達した村上の恋人は、ある日突然彼の前から姿を消してしまうのである。しかし彼は、彼女に去られた事実をもってしても、「愛」という美辞に目がくらみ、自分の行いに非があったとは夢にも思わないのだ。
 このような愛情の履き違えは、何も男女のものに限らない。親子の愛でさえ、往々にして起こりうることなのだ。例えば、昨今子どもに甘い顔をすることが親の愛であると勘違いしているケースが目立っている。子どもが何か悪い行いをしても、きちんと叱れない親が増えているのである。また、そんな親たちは教師が我が子を厳しく叱咤しようものなら、それを非難する始末だ。それは果たして、子どもにとって本当にためになることなのだろうか。叱られるべきところで叱られなかった子は、礼儀を学ぶ機会を逃してしまう。そして、後の人生の人間関係で困った事態に直面してしまうかもしれないのである。こういった、子どもたちに迎合するような態度は、もはや愛情などではなく、親の自己満足でしかないだろう。
 では、男女間にせよ親子の間にせよ、純粋に相手を愛するためには、どのような心持ちが必要になるのだろうか。それは、「お互いのことを真に思いやる気持ち」ではないかと私は考える。相手のことを思えば、優しい顔をするばかりではなく、時に厳格な態度をとらなければならないこともあるだろう。自分のためではなく、相手のためになるようお互いに思いやる努力を怠らないことが、理想の愛の形なのではないだろうか。(フランス語圏文化学科3年 小室真衣子)